2006年12月29日(金曜日)
久しぶりのコビ関連であった。
2006年12月23日(土曜日)
伝継体天皇陵へ行く。が、散々であった。肝心の本当の継体天皇陵と言われる高槻市内の今城塚古墳は何か調査中とやらで囲いがしてあり侵入できず、また様々な点で頑固な宮内庁比定の茨木市内の太田茶臼山古墳の伝継体天皇陵はなぜか入り口のゲートが閉まっていた。すぐ近くからは見えたもののこれはあんまりではなかろうか。(この辺り一帯に愚かな飼い主が大量にいるらしき犬の糞するなの看板が大量にあったことに関係するのだろうか?)またそれにしてもこのおかしな目的のために、JR摂津富田→今城塚古墳→太田茶臼山古墳→阪急総持寺を徒歩だけで済ましてしまう私もアホであろう。そしてついでに言いがかりを付けるようだが江戸時代になって初めて原型を無視するまでに徹底的に整備された現在比定の天皇陵、これらの中には現在の考古学的学説と明白に矛盾しているものも多いことが判明しているのにもかかわらず、それでも徹底的に管理している宮内庁にも苦言を言いたくもなるのだ。
2006年12月10日(日曜日)
姉の結婚式に参列。めでたきことである。なお私は不慣れながらも弟の奉仕としてデジカメ係を行った。
また前日からは千葉東京京都の親戚一同が福岡の家に集結するなど賑やかな週末となった。
2006年11月26日(日曜日)
さて、最終日は午前中に初日に見るつもりだったMRT中山駅の庚楽公園(明石元二郎らが埋葬されていた元日本人墓地。蒋政権時代はバラック小屋が不法に立ち並び滅茶苦茶にされていた場所。今では非常に奇麗に整備されていてここも市民の憩いの場。二二八和平公園などもだが、台湾の公園は総じて非常がつくほど奇麗な場合が多い。最近(民主化以降)整備されたというのもあるかもしれないが)、MRT西門近くの中山堂や紅櫻劇場や北門の外観を見て、終了。12月以降に記しはじめたがかなり疲れる。ここまで書きすぎのようにも思えるがかなり書きたい内容はこれでも色々考えもあって削った方だ。完全版は後で作成しようと考えているブログ版に乗せたいところだが、国内版同様まったく手がつかないので無理かも知れない。
そこにはこんな風に携帯電話で撮った写真記録を載せようとも思っているのだが。
宜蘭市員山公園内の破壊された石燈籠や神馬のを例に挙げておく。

それと台湾についてはこのサイトも有益になるものがあったので一応紹介。帰って読んだけどね。
全然日記の体裁ではないが、ここに書いていない点をいくつか上げておこう。
台湾は総じてセブンイレブンや吉野屋などの日本資本が多い。セブンイレブンに至っては同じ通りの向かいにあったりなど日本では考えられない配置をしているなど溢れすぎだ。ちなみに宜蘭車站のキオスクや台北捷運のキオスクもセブンイレブンだった。他にもファミリーマートやニコマートもあるが、セブンイレブンの数が圧倒的に勝っている。宜蘭駅と書いたが、台北市はもちろん、桃園という台北郊外都市だけでなく、宜蘭と言った地方都市にもたくさんのセブンイレブンがあり、茶のペットボトルを買うときなどに世話になった。ちなみに茶は緑茶、烏龍茶と当然台湾のメーカ品だが、日本の物とほとんど区別できないくらい同じ傾向の味だった。ただし微糖とか書いてあるものもあり、日本的な茶を求めるならば無糖を買った方がいいだろう。私は全部無糖で買った。あと吉野家については淡水と台北にはあったが、宜蘭桃園では見かけず。特に街中を歩き回った宜蘭にはなかったので多分無いと思われる。味は不明。誰もさすがに入ったという話は聞かなかった。更にちなみにマクドやモスやケンタッキーも普通にあるし、回転寿司や和食店(台湾人自身に人気あるらしい)も数多い点もあげておく。
狂犬問題が持ち上がっていたが、人が多い街中に野良犬が多すぎるのも台湾の特長だ。特に台北は野良犬が徘徊しまくっている。宜蘭は大していなかった気がする。で、中には見た目で判断する限りいかにもやばそうなのもいたりして危険だ。そもそも飼い犬っぽいのも鎖なしばかりだった。この点、最近の大阪でもアホが増えているのでどっちもどっちだが。逆に猫は貴重だった。犬はへたすれば50匹〜100匹近く遭遇したわけだが、猫は数匹しか遭遇しなかった。ちなみに犬の最大のピンチは故宮→士林間の大通りの狭い歩道で怪しげな犬がいた場所。狭い歩道なので大きく避けることもできず。ただ今思い出したが、台湾の街中の野良犬はどいつも鳴くことも威嚇することもなく非常におとなしかった。
2006年11月25日(土曜日)
さすがに趣味に付いてこれる人間はおらず(というか何も考えてないにも程がある人々ばかりで困ったもんなわけで)、この日は完全に単独行動を取る。台湾は日本で無防備に構えるよりも、最低限の警戒心さえ持ってれば安全と判断するしかないくらい安全なため問題はないと言えるだろう。この日は本来の草案では宜蘭に行って夕方にそのまま桃園という作戦だったのだが、初日の時点で夕方5時は既に暗くなりつつあることを考慮して、順序を逆転させることにした。つまり桃園行って、次に宜蘭という作戦である。
そうと決めていたので、まず朝っぱらから台北火車站へ向かう。そして切符を買うために窓口に並ぶ。もちろんメモ帳に行き先と電車種別と電車番号とその時間、枚数(台湾では一枚に非ずして、一張と書くのだ)、更に無座OK(指定券は激戦なので無座OKとしておかないと乗れないかもしれないため)を記して準備万端だ。しかしガイドブックの時刻表が既に改訂されていたために多少手間取るという些細なハプニング。結局、改訂後も同一番の電車で発車時間が近接していた宜蘭行きの往復券(座席指定あり)は購入できたが、桃園行きは既に行き去ったあとということを示され購入できなかった。ちなみに宜蘭ー台北はたった400元の安さだ。ちなみに往復切符になると二割引きされる。
で、買えなかった桃園行きの方は仕方ないので、近場の桃園へは次来る電車種別を電光掲示で確認して、記憶している予備知識を用いてまったくスムーズに自動販売機で切符購入。(予備知識が無いと手間取ったこと間違いなしであっただけに細かな点まで記憶していてこれ幸い)ちなみに買ったのは三分後に来る予定の電車「区間」であったのだからいかに迷いなく買える自信があったかを示しているだろう。が、これが次の失敗を生むことになってしまうが、またそれは後で記す。「区間」なる種別の電車は日本の快速っぽい電車で車内はガラガラだった。地下鉄の捷運とは異なり、座席も日本の普通電車の窓に平行した長い椅子といったスタイルで、日本とまったく区別は見られないように見えた。
30分超だろうか、そんな調子でゆったりと桃園火車站へ到着する。目的の桃園忠烈祠を目指すにはバスという手もあったため、ひとまずバス停を探すが正しいバス停が見当たらない。ちなみに桃園駅周辺の地図はガイドブックにも載っておらず日本で調べたがまったく見当たらず、GOOGLEマップなども台湾は未対応であった。そのため流しのタクシーを拾うべく駅前広場から通りの方へ適当に歩いて、タクシーゲット。とは言え桃園忠烈祠は観光地ではない上に地元でもマイナーな存在であるという事前情報である。扉を閉める前に、例の如く筆談で、近くのバス停という桃園榮民醫院を併記しつつ知っているかどうかの反応を確かめる。反応は上々。事前情報とはネット情報およびそのネット情報元の片倉佳史氏の「台湾日本統治時代の歴史遺産を歩く」という旅行前々日に購入し前日に読破した書籍(台湾版が評判になって日本語版も出たと思われる)なのであるが、この本の影響でタクシーの運ちゃんにはお馴染みの場所になりつつあるのかもしれない? 車に揺られること10分ほどで郊外の桃園忠烈祠の真ん前まで連れてこられた
さて、桃園忠烈祠とは何者かというのは後回しにして感動を書き残しておこう。到着後、まず足下の石に注目する。表には奉献、裏には昭和十三年九月吉日の文字。そして石段を登ると見える見える、いきなり感動的なまでにも鳥居と6つの石燈籠が見える風景が出迎えてくれる。鳥居は上部が変形されてしまっているとは言え健在であり、石燈籠はこの地に生き続けていた。説明書きにもかつての前身の桃園神社について、天照大御神からハッキリ説明してあり、実はここは台湾で唯一、本殿と拝殿がそのままの形で残っている神社遺構なのだ。更には神馬の銅像や対の狛犬達も残っている。狛犬を撫でるという恐るべき誘惑を果たすことはできたわけだ。畳敷きの社務所までもキチンと残っている。手水舎の遺構もある。拝殿には賽銭箱まであるのだから、ここは神社以外の何者でもあるまいと思うのだが、当然ながら本殿の中身はそっくり入れ替わっており、ここに祀られている神はいない。蒋時代に作られた桃園県の忠烈祠として国軍兵士らが祀られている形になっている。
ちなみに敷地内は非常に奇麗に整備されていた。正直日本の神社の中でも奇麗な部類に属するくらいだ。日曜画家(土曜日だけど)たちが十人近く出張ってきていた。どこを見ても目に付くような人数であり、ここは地元の人には愛すべき美しい場所になっている様子が見て取れた。日本人は明らかに私だけであっただろうし、不思議な感激に浸る様子がどこかの絵に残されているかもしれない。先述した拝殿の賽銭箱に五元硬貨を放り入れて日臺友好を祈って、去りがたさを覚えるこの七十年前の懐かしい空間を去るのだった。
願わくば、この地は知る人ぞ知る美しい場所であり続けて欲しい。決してガイドブックに載るような観光地にはならないで欲しい。と思わずにいられない一方で、偏り無い視点で歴史をこよなく愛する人達にはぜひ訪れて欲しい場所だ。要は興味がない人間がなんとなく来る勿かれということだ。
事前情報では、帰りのタクシーを拾うのが至難の業とかいうのもあったものの、朝の時間帯であり、また近くに桃園榮民醫院のバス停があるため、そこまで悲嘆していなかった。で、バス停の傍でタクシーを待つことにしたが、五分くらいで拾うことができた。筆談でわかりそうなもんだと思ったが、なぜかこのタクシー運ちゃん(おっさん)は私が日本人であると見抜けなかったらしく、最終的に「タイワン? チャイニーズ?」 などと聞いてきたので、ジャパニーズと言ったら、嬉しそうに「日本人か」と言っていた。それ以前に乗る際に目的地に「桃園站」と指定すれば分かるかと思ったんだが、筆談返しで「火車?」と聞いてきたので口答でOKと答えた。火車とは台湾で電車の意味であり、汽車とは自動車やバスを指すため、この辺りの最低限の素養も持っていて幸いだったと言えるだろう。
参考までにこの桃園は中正国際空港がある県であることもつけ加えておこう。ただ飛行場と台湾鉄路の桃園駅は非常に遠い。そのため数年後には捷運が開通する予定であるらしい。それ以外でも台湾では五年後くらいまでに圧倒的な捷運網が敷かれることになるようで、ますます便利になる一方、タクシー業界は大変としか言えないだろう。ただでさえ日本に比べて交通費が異常に格安であるというのに。
さて脱線したが、臺鐵の桃園站に戻ってきたので、直後の台北方面の電車の切符を自動販売機で購入する。急行に値する莒光號であった。(自動販売機で買ったら莒光號や自強號でも無座扱い)その莒光號がまたラッシュアワーを想起させる以上とも言える激込みであった。積み残しにあう人々もいたほどだ。それにラッシュアワーと違って乗っているのは台北へ遊びにいくことが目的の地方人達であり、この日本では日常的であるが、異国での驚異的な経験を経て台北に到着。
ここで宜蘭行き自強号(自強號は特急に値する)の切符を見ると、五分しか余裕がないということに直面。台湾国鉄では出口と入口が別になっているため、1回出口から飛びだして、大急ぎで再度改札へ向かう。この大急ぎであったことが最大のハプニングを生じさせてしまった。しかも機が悪く、ちょうど同じ時間発の電車であった。つまり松山方面の東部幹線と板橋方面の西部幹線が同じ発車時刻であり、私は何をとち狂ったか、間違った方が正しいと瞬時に思いこんでしまったのだ。それがために反対方向の自強号へ乗り込んでしまった。乗った後に嫌な予感がしていた。なぜなら11車両目の指定席なのに、なぜか9両目までしかないのだ。次の停車駅の板橋で降りて、出口の窓口で「電車反対 乗車mistake」などを書いて筆談対応に挑むハメになった。「イーラン!?」と素っ頓狂な声をあげたものの(この時宜蘭がイーランと読むことを初めて知った)、幸い何とか意味が通じたようで、そのまま台北に行って次の列車で宜蘭へ向かえと指示された。切符は手書きと板橋印で対応してもらった。実は対応してくれたもぎり氏が間違えて無効印を押してしまったのでその訂正印かもしれないのだが、もぎり氏は飛び跳ねるような大忙しの中、親切に対応してくれたといえるだろう。
で、改めて宜蘭行きの自強号に乗り込む。当然無座扱いなのだろうが、私は無座のテクニックもちゃんと知識として身につけていた。台湾では無座の場合、空いている席に座るのが常識であり、指定券持っている人が来たら速やかに交代するのが慣わしなのであるらしい。そこで私も台北をすぎても空いている席があったために占領し、結局そのまま宜蘭まで座り続けることができたのであった。これ幸いだった。もちろんいつ何時かわからないため、宜蘭近くまで停車駅が来る度に身構えるハメになったのではあるが。ところでこの東部幹線は海沿いを走るため、途中の海は美しかった。こちらの海は正真正銘、その先に沖縄や日本となる故郷に繋がる海だ。
自強号に揺られて2時間弱、誤乗車を合わせると2時間半以上経っていただろうか、13時半過ぎに宜蘭に到着する。さっそく目的地である員山公園へ向かうべくタクシーを拾う。筆談で伝えるとわざわざ日本語読みで返す辺りこのタクシーの運ちゃんもただものではないというか、員山公園も観光地ではないはずだが、やはり最近は訪問者が増えているのかなと思ったのだった。宜蘭の地図は中心部のみはガイドブックにも記載されていたが員山公園は記載外であることもあり、タクシーでは可能な限り道筋をハッキリ記憶に残した。
員山公園まで165元であったが、200元のお釣りが50元硬貨であった。タクシーのあんちゃん曰くには「負けてくれる」とのことだ。なぜかたどたどしいながらも日本語。もしやその日本語喋りたかったな、こやつめと思った次第であった。が、結果的に真っ直ぐ負けてくれるわけで、台湾のタクシーは観光地などには悪徳といるというが、基本的には旅人には優しい人が多いということは間違いないであろう。
さて、ここ員山公園にも神社遺構は存在する。ここも至って奇麗な公園であり、決して観光地ではなく、市民の憩いの場となっているのだが、その奥に見える石段はまさに神社そのものだ。石段の途中には中華風に色ぬられた元の鳥居がある。石段の手前には精悍な狛犬様が対になっていて、傍には神馬の銅像はいる。しかし神馬の頭にはリボンのようなものが付けられ、お馬さんと呼んだ方が適切に思えるような可愛らしい姿となっていたが、それでも廣島市久保田本店などなどといった文字は判別できるまさに遺構だろう。また石段の下には破壊された狛犬や石燈籠などがバラバラ死体さながらの惨状となった状態で散らばっており、戦後の蒋政権の政策として神社破壊を行った歴史を瞬時に思い起こさせる効果となっている。もちろん展示のためにわざわざ壊したのではなく、ほとんどの狛犬や石燈籠、神社本体も破壊されているのであり、その破壊された残骸を集めてきたのであろう。ちなみに関係ないが、傍には戦車も並んでいて、子どもたちが遊んでいた。
石段を登ると、その上には現在は拝殿の建物があるわけではなく、その跡地には宜蘭県忠烈祠がある。そしてその周囲を囲むように神社についての展示がされており、宜蘭周辺のかつてあった神社の様子などが展示されている、また桃園神社についても最も当時のまま残っている遺構として紹介されていた。2000年に建てられたらしいが、そこにある身近な歴史の重みは生半可ではなく感じられる。重い問題だからこそ真っ向から遺構を残し語り継いでいく必要があるのだろう。そこに後世の感情が交じった虚構を入り込ませては歴史の教訓は生きることはないのだろう。それにしても強い。
員山公園を出て、タクシーを拾えるだろうと高をくくっていたのだが、それがまったくいないという事態に陥ってしまった。飯を食ってないことを思い出して、道路沿いに並んでいた宜蘭名物の魚丸米粉の店でなんとなく指差して食事に有り付く。短い麺と魚丸(魚肉団子の汁物であり、これは牛肉麺と違ってあっさりしていて美味しかった。
その後、行きがけの記憶と太陽の方向から町への方向はハッキリしているため、大通りを歩き通した。結局タクシーはほとんど通らず、通っても既に人が乗っているありさまであった。員山公園が駅から3キロらしいので、たぶん二キロは歩いたのだろう。次なる目的地としていた宜蘭設治紀念館の通りに出た。つまり中心部の環状通りである旧城西路沿いの宜蘭酒廠や宜蘭設治紀念館あたりから南西に延びる道をまっすぐ行けば員山公園ということらしい。大概疲れ果ててヤバイかもと思いだす頃合いだったので、これには多少は助かったと思わざるを得なかった。
さて、設治紀念館は元の日本統治時代の地方長官のいた建物を補修したもので、最近公開されたところである。中はスペイン時代からの現在まで続く宜蘭の歴史の流れが紹介されていて、郷土史歴史館の様相と言えるだろう。その庭も注目すべきで日本庭園が復元されていて、枯山水もある。ちなみにここはガイドブックに載っている観光地となっている。。台湾人っぽい家族連れがいるばかりで、地方都市の観光地らしい様相であり、落ちついた場所であったが。
この時点で5時近かったので、このまま最後の目的地中山公園へ向かおうとも思ったが、やはり近いので酒廠に寄ってみることにした。酒廠らしいゲートがあったので入ったがガイドブックに載っている建物が見当たらない。仕方ないのでガイドブックの小さい写真を示して、ここ(宜蘭酒文物館)はここで合ってるの? と言う風なジェスチャーで質問してみた。すると、にこやかにその建物はバスの陰になっている点を教えてもらうことができた。そのバスには台湾かどこかのの修学旅行生っぽいのが乗っていた。宜蘭酒文物館内もこの学生ばかりである。私は酒には興味はないが、酒好きならぜひこの場所は訪れればと思う。
その後は暗くなってきていたが、中山公園へ。この公園は街中ということもあるのだろうか。今までの公園に比べたら少々生活臭というか小汚い感じであった。台湾は町中には今の時勢危険な野良犬が多数いたのだが、この中山公園内にも沢山いた。奥の方には日本統治時代に建てられた獻馘碑(タイヤル族服属時にタイヤル族をが首狩りで得た頭蓋骨を納めさせたものらしい)や忠霊塔がある。
順番が前後するが、中山公園に向かう道の途中にあった監獄事務所も見たかったのだがここも一大観光地化を目指している見たいで、公園整備中のため見ることが出来なかったのが残念だった。
五穀廟については見ることができた。廟内で、話しかけられたので日本人であることをアピール(台湾では基本的にアピールすべきのようだ)すると、上手くはないがハッキリした日本語で返答があった。年齢的に初等教育世代なのかもしれない。どこから来た? と問われたので大阪と答えると感心していた。ここで五穀廟のパンフレット(中国語)を頂戴した。そのパンフレットの漢字を漢籍歴史資料を読むような気持で判読すると、200年の歴史を誇る五穀廟も日本統治時代は名前を代えられるなどひとかどの大変さはあったようだ。
中山公園を出た後、電車の時間まで1時間以上あったため、石敢当を探して見るも結局見付けることができずに断念せざるを得なかったのは残念だった。
宜蘭の町は地方都市ながら活気もあって良い町であった。日本と劇的なまでに変わりばえがあるわけではなかった。人々は優しいし、車の運転も日本に比べて特に危ないという感じもしない(台北はさすがにバイクも大量にいるし交通事情は荒っぽい。が、ホーチミンに比べてばまるで大したことないため結局は日本みたいなもんだと言える。)地方都市らしいのんびりした感じだ。員山公園からの道筋も日本の歩道なき車道よりは遙かに安全であったのも印象的だ。土産物屋でなんとなく宜蘭名物の牛舌餅を買ってみた。まだ食べてないけど。。。
そんなこんなで名残惜しくも宜蘭を後にするために、宜蘭駅から台北行きの電車に乗って、指定席で安心して居眠りも挟みながら21時前くらいに台北駅に到着するのだった。この宜蘭ー台北の最後の切符だけは記念に持って帰りたかったので、持ち帰りのための印鑑を探すも見たらない。探している様子を見ていたからだと思うが、なんとかジャスチャーも含めて、理解してもらって、宜蘭ー台北の切符は持ち帰ることが出来た。
夕飯を食べていないので、ガイドブック記載の双連の洋食屋でお奨めというチキンカレーを食べる。が、高級なカレーに舌が合わないのかよくわからないが、そこまでお奨めか・・・と思ってしまったのは秘密だ。やはり現地料理を食べるべきだったかと多少後悔してしまつつも、最後台北車站に戻って、台湾故事館へ行くことにする。ガイドブックに23時まで開いていると記してあったからだ。
ところが残念なことに、入館22時までだったので入れないところであったが、明日帰るというと、無料で入るだけ入らせてもらえた。台湾故事館は1960年代の台北市の様子(派出所や小学校、駄菓子屋などなど)を再現したレトロ街になっていて、中では本当の町同様に色々物を買えたり食事も出来たりする空間になっているのだが、残念ながら切符買ってないので見るだけに留まった。お奨めの場所でもあり、今度来たときは堪能したい場所だ。ちなみに日本語パンフレットもあり、なにより再現した時代設定からして日本語が町にずいぶん残っている時代で正直日本と言っても違和感がない空間となっている。ちなみにここもガイドブックから大きくシステムが変わっていた。訪台前に確認しておくべきだろう。それにしても、日本にもこういうのを作る物好きな金持ちが出現すればよいのだが、とつくづく思うのだった。
2006年11月24日(金曜日)
この日はまず捷運淡水線で台北車站(国鉄駅)へ行き、近郊の國父史蹟紀念館に立ち寄る。本当に駅前一等地にある庭園付き紀念館のため、その大きな対照的光景には戸惑いを感じてしまう。京都街中の寺のような余裕ある空間と都会と庭を隔てる障壁とてもないのである。庭園と大通りは面しており、そこには柵こそはあるが、空間を隔てる能力はなく、縞模様に外部と筒抜けになっているのだ。さて、それはともかく国父とは孫文(孫中山)のことであり、この紀年館は孫文が90年ほど前に台北を訪れた際に泊まった日本旅館「梅屋敷」の宿泊部屋を移築したもので、中は当然畳敷きの日本家屋になっている。中の展示物としては孫文の業績を示したもので、そんな量は多くない。庭園の方は日本式庭園というよりは中国式庭園を小振りにした感じのもので、都会の喧噪の中の異次元と化しているとは先も述べた通りであるが、庭自体が池と植物が整備されており美しいものとなっている。ちなみに無料。
次に向かったのが総統府であったのだが、その途上で現地人のおばさんに話しかけられた。当然言語がわからないため、シンプル英語でわからない旨を伝えるも、それすら伝わったかどうか。しかもその後その人、他の人には何も尋ねることないので謎だ。多分台湾の中でも地方人で台湾語しかわからないとかそんなんだったのであろうか?
で、総統府。ここは平日の午前中しか見学することができないため、この日、この時間しかチャンスがないということになる。総統府は言わずと知れた元の台湾総督府そのものである。終戦真際に爆撃を受けて半壊した台湾総督府をわざわざ復旧させて使い続け、現在に至る。李登輝以後は一般人に対する部分公開を行っており、現在ではパスポートと荷物検査などを受ければ平日午前中に限って入ることが可能になっている。私も荷物を預けて入らせてもらう。
公開内容も日本統治時代の総督達の写真と光復後の台湾総統達の写真が並んでいるなど、台湾総督府時代の歴史もちゃんと客観的に含まれているのが逆に驚かされてしまう。さらに驚いてしまうのが、その日本語解説員だ。ちょうど日本人向けの説明を開始したばかりだったので合流して聞き始めたのだが、元日本軍志願兵であり、今でも日本を愛して止まない人であった。昭和天皇はもちろん、現天皇の名前はもちろん皇太子の名前もバッチリ覚えており嬉々とした様子で話す。また教育勅語を配布し、現在にも復活させるべきだと力説していた。教育勅語は暗唱しているのだからすごい。それに教育勅語は確かにまったく軍国的ではなく、現在にも通ずる素晴らしい人の道を説いていたのを発見させられた。それに米国軍が1940年以前に台湾上空写真を撮るなど防諜活動をしていたことを証拠の写真パネルの前に説明するなどの当時の戦争は防衛戦争だったとも力説。他色々話してくれたが都合により大幅カットすることにする。ちなみに次の団体は聞き慣れない言語(台湾語かなにかか?)で解説を受けていたので、恐らく台湾の地方からの団体さんか何かであると推定される。このように当然だが、決してここは日本人観光専用の場所ではないということはつけ加えておこう。
ともかく日本人として各種複雑な思いを抱きつつお話を聞いたわけだが、この台湾総統府見学は今回の台湾の旅でもっとも価値ある場所であった。日本人は偏りすぎない客観的基本的知識をまず身につけたあとであることは当然としても、台湾を訪れる際はかならず総統府には寄って複雑な歴史の思いを抱いて欲しいと思う。
次にそのまま歩いて、近郊の二二八和平公園へ向かう。実は台湾人が40年近くに及ぶ蒋氏独裁政権を挟みつつも、日本統治時代により郷愁を感じたままでいられる理由の一つがここにある。
この二二八事件についてはぜひ我ら日本人も知っておくべき事件であるので是が非にもググってもらわねばなるまい。
なお現在の公園内は奇麗に整備されており喧騒な感じもなく平和そのものである。毛が少ないのが気になったがリスも生活していた。
公園内には二二八紀念碑が事件の悲劇を広く世に問い風化させないために公園内に建っている。またに二二八紀念館も設置されていて予定通り見学した。台北の歴史の流れが日本統治期の厳しい点も展示されているが、中心となるのは二二八事件のあらましやその犠牲者についての展示となっている。
またここには明石元二郎という昔の台湾総督の墓所にあった鳥居がある。何一つ案内などはないため注意されたい。場所は国立台湾博物館入り口を背にした状態で右手側、公園北東部にひっそりでもないが、大きい鳥居と小さい鳥居が立っている。
この時点で時間がずいぶんおしていたが、国立台湾博物館も入った。が、ここは中は期待したほどではなかったと言わねばならぬ。というか大陸関係を期待した時点で間違っていたと言えるだろう。展示物はスペインやオランダ絡みで大航海時代の様子を美しい視覚効果で演出したりしたものや原住民の歴史、生態系などであった。ちなみに残念ながら児玉源太郎、後藤新平のの銅像の特別展示期間でもなかったらしく見当たらなかった。
さて、ここでとうに13時を回っていた。本当は北門や中山堂などの地区にも回りたかったが、ここで諦めて、昨日の台北ウォ―カーに記載されていた牛肉麺の人気店に向かうために淡水線の雙連(双連)に向かう。しかし目指した店が非常に混んでいたため、そこは諦め、適当な牛肉麺屋に入ることにする。結論から言うと、癖のありすぎるその食べ物はかなり食べずらかった。それでも汁以外は完食は達成はしたが。ちなみに店員の中年男性は一応片言の日本語を使えた。しかし牛肉麺について牛肉ラーメンと言っていた。もちろんラーメンとはまったく麺も汁も全てが異なっているので突っ込みどころ満載であるのは言うまでもない。
急ぎ、淡水線の士林に向かい、故宮行きの初のバスに乗る。そこで馬鹿な日本人が釣りを要求していたが、当然バスでは釣りは出ないことは予備知識として調べておくべきであろう。たった15元で故宮へと接続している。ちなみに捷運は20元から25元でだいたい10駅くらいまでなら行くことが可能になっている。交通費は対日比率で考えて格安なのが嬉しいのが台湾。外食費はその分、対日比率を考えるとやや高め。書籍は高すぎとなるので全てが安いわけではない。さて、それはともかく故宮だ。
後で聞いたところによると、既に15時近いという時間になっていたためでもあるらしい。恐るべき人の数である。その展示物に群がる人の数は正倉院展に匹敵する上に解説員を連れたツアーが数多いため非常に邪魔であると言わざるを得なかった。日本人比率も異常なまでに高いのも言うまでもない。特に明清あたりが人気があるように思えたが、私はあまり明清あたりの中国に対しては特に興味が深いわけではない。唐宋以後は日本と文化レベルに大きな差もない上に、清あたりの細かい装飾を見ると歴史経緯から鑑みて素直に感嘆出来ないからだ。だからというわけでもないが殷(商)や周から漢あたりまでの古代古代の青銅器関連や南宋あたりまでの仏像などの方が興味深い。これには興味が薄い人が多いせいか人も少なくゆったり見れたのが幸いであった。
さて、出たあとに地図が配布されていることに気付き、その地図をじっくり見たときに気がついた悲劇として、別館にも展示があったらしいことであった。これはショックだった。
またどうでもいいが、土産屋の日本語解説本を手に取ってみたが、その文字の大きさ、まるで小学一年生の教科書の如しだ。これは日本人は興ざめして誰も買うまいと思うから商売失敗しているとしか思えない。これなら薄くて写真が多い本でも出すべきであろう。
故宮を出た時は既に17時近かったが、そのまま隣の至善園へ向かう。中国庭園らしいのかよくわからないが、広大な敷地の広大な規模の庭園であった。ここでしばらく疲労を回復させていたが、あたりは暗闇に包まれたので退却。
帰りもバスでも良かったのだが、ここは初タクシーを試みることにする。故宮前に待っているタクシーは怪しいので当然パスするとして、士林の方向へ歩きながらチャンスを待つ。そこで筆談初体験をしつつ、士林に戻ってきたのだった。ちなみい105元の区間のところを100元で良いというジェスチャーだった。(その実100元で足りると思ったので100元しか渡さなかったら、もういいもういいというそぶりをされただけだったりするが…)
さて、実はこの日に旧真言宗寺院があるという北投にも行きたかったが、どうみても閉まっているので断念せざるを得なかった。仕方がないので、ガイドブックに22時まで入れる紅毛城が載っていたこともあって淡水に向かうことにした。
淡水は淡水線の終点で、30分くらいかかる。もちろん台北市外であるが台北県内の海に面した町となっている。紅毛城はお祭りを想起させるような賑やかな町を抜けてしばらく歩くとあったが、なんと紅毛城の中には夕方までしか入れないという。敷地だけは22時までOKだったのでとりあえず敷地には入り、ぐるりと外観は観察したが、さすがに暗すぎることもあって意味不明な心境であった。ちなみに台湾の歴史では最古に位置する400年近く前にスペインが建てた城ということだ。また同一の敷地内には旧英国領事館の華麗な建物もある。こちらももちろん入れないため、窓から中の様子を窺ったりしたのだった。いずれにせよ、これでは満足は出来るわけもなく、次回来たときはぜひ建造物の中を見学したいものだ。
ちなみに淡水は港の町であるため、海の向こうに日本かなとも言ったものだが、あとで地図を見ると、その実は中国大陸であった。
夕飯は双城街の小規模で適度な混雑しない夜市で、100元程度の庶民的な水餃子とスープなどの飯を食べるのだった。お婆さんは日本語が達者で色々と優しく気を使ってくれた。こんな場末の夜市の店でも日本語のメニューもあるところが頼れるところだろう。
2006年11月23日(木曜日)
以下は11/30記す。台湾の会社旅行記を書き残しておこう。
まずは空港からのバスの強制旅程として、台北市龍山寺である。清統治時代からの台湾屈指の伝統ある寺院であり、確かに歴史文化の違いを強烈に意識づけられる建築物および信仰状況であった。ただ日本の神社や寺と違ってあからさまに信者達が集まっている寺院において観光客が集団で興味半分で信仰の真似事をするのはいかがな物なのかと思ってしまった点はあった(私は真似事はしてないが)が、まぁ、現地ガイドが案内している以上は許容されているのだろうか。
次に向かったのが中正紀念堂であった。中正とは蒋中正のことである。彼を讃えた巨大モニュメントと言っていいだろう。衛士の荘厳な交代式も見学することが出来た。ところであとでも記述するかもしれないが台湾では蒋氏独裁政権時代はまったくよく思われていない。しかし今後も中華民国が民主国家台湾として独立している限りにおいてはこの建造物が破壊されることはありえないであろう。端的に理由を述べれば、歴史経緯も手伝って彼らは歴史を歴史として客観的に見ることが出来る優れた人達である。スペイン/オランダ統治時代→鄭氏/清統治時代→日本統治時代→蒋氏独裁中華民国時代→民主政権中華民国時代と続く台湾だが、台湾人民自身が主役になりはじめてからまだ10年ほどしか経っていないのだ。独裁政権は前時代の遺構を破壊するが、人民は相当の怨みがないかぎり積極的破壊はしないだろう。むしろ民主化台湾は自身への探求心のみが強くなっているいるのだろう、過去の歴史を受け止め学ぼうとする生真面目さを感じる。
脱線したが、その後は高級な北京料理を食わせてもらうのだが、この点は特に受動的であり格別な感慨はない。
その後は次の日以降のことを考え、台北捷運(MRT=地下鉄)の試乗を考える。予想通りまったく問題ない。日本とほとんど同じだ。唯一戸惑いそうな自動改札の入出口のゲートは切符挿入後手動で突破するだけだ。各種案内掲示などは日本以上に適切丁寧でわかりやすい。ただ飲食は罰金1500元(地下鉄初乗り75回分で些細なことではない)ちなみに座席は待合室のような固い座席であった。女性専用座席や優先座席もあった。で、ついでに乗り換えを行い、市政府站(駅)まで行き、一度は行くつもりだった台北最大と想定していた誠品書店信義店へ向かう。MRT乗車以後のMAPなどは頭に入れているのでガイドブックなどは取り出す必要はない。
誠品書店信義店は洒落た店だった。ひとまず目に付いたので、歴史コーナーっぽいところに行くと、日本史を結構なスペースを占めていたのが印象的だった。探偵小説コーナーは現在の本格作家(芦辺氏の紅楼夢の殺人や二階堂氏、有栖川氏、綾辻氏、他に島田氏など)も目だったし、ホームズやヴァン・ダイン(ヴァン・ダインを読むのは日本人以外では台湾人だけだったりして)。そして異様に目立つ一区画に戦前日本探偵小説たち。甲賀三郎や小酒井不木、大阪圭吉らの姿が見える。乱歩は少年物しか並んでない様子。黒死館殺人事件を購入しようとも考えたが、値段は400元(およそ1400円)ほど安くなかったが、それ以上に荷物になるのが嫌だったので、購入は取りやめた。漫画コーナなども見てみたが、予想どおり日本の漫画で溢れていた。日本の書店にある有名なものはほとんど訳されているのだろう。書店では一応何か購入実験をしたかったため、台北ウォーカー(100元)を買った。あの関西ウォーカーとかの仲間であり、台湾では他に台中と高雄があるらしい。(あとでホテル近くのセブンイレブンにおいてあることがわかって違うのにすれば書店らしいものにすれば良かったと思ってしまった・・・)
その後、近くの世界最高の高層建築である台北101の近くまで行ってみようと考えた。信義地区は真夜中にもかかわらずネオンが美しく、台湾の中でももっとも近代的地区なのではないかと思われた。台北101は22時までなので当然閉まっていたが、人の往来もそれなりであった。
2006年11月15日(水曜日)
半分くらいしかみていないが、オシムジャパン始まって以来もっとも良い出来だったのではないか。選手の流動性が素晴らしく、各選手が意外なところ現れる。これでは相手チームは守りにくくて仕方がないだろう。ジーコとオシムは両者とも自由なサッカーという言葉だけは共通しているが、なぜジーコのサッカーが低レベルなものだったかというと、例えればジーコの自由は「砂漠の真ん中でペンだけ渡して好きに自習せよ」であり、オシムの自由は「図書館の中でペンだけ渡して好きに自習せよ」なのである。
オシムの欠点を上げれば千葉の選手を選びすぎの感があるものの、
2006年11月12日(日曜日)
非常に大袈裟に言えば19の秋にその名を知って以来8年間憧れ続けた奈良県二上山のふもとにある当麻寺へ行った。当麻寺曼荼羅図。平安時代の本物はもはや判別不可能らしい。この日は中之坊の本堂に室町時代の模写が掲げられていた。それでも圧倒的な存在感を示してくれる。藤原豊成の娘、中将姫伝説。今やっとその地を知る。駅から平地を歩いて辿り着き、しかも駅までも1時間半程度で辿り着けるにもかかわらず、今まで足が向かず、これは怠慢としか言えなかった。大学の時に行っておくべきだった。
ちなみにこの当麻寺には東西の三重の塔があり、何でも創建時の東西両塔としては全国唯一のものであるらしい。金堂や講堂に仏像も多く安置されており、白鳳時代のものとなると想像も付かぬほどの昔。そもそも私の認識では大宝以前の日本書紀記載の歴史は全て伝説という位置付けであるので、伝説時代の仏像というわけだ。あとこの当麻寺は真言宗の中之坊の他にも浄土宗の奥院など別宗派が集まっており奥院の浄土庭園も美しく見どころは満載となっている。ただしいまだ紅葉ほとんどなく、本当に美しい時期は来週くらいか?
どうでもいいが、当麻寺中之坊境内にはにゃんこを多く見かけた。文化財保護をせねばならないお寺にしては珍しいことである。勝手に建物に侵入したりしないのだろうか? 実際最初に見かけたのは名勝・史蹟に指定されている庭園にいたわけだが。
2006年11月4日(土曜日)
首都制覇計画の一環として、京都御所の一般公開に行ってみた。人はかなり多かったが、場所が広いせいもあるのかもしれないが、正倉院展よりは遙かにマシである。御所は等身人形で演出してあるなどしてあった。庭も美しく整備されており、ここがかつて天皇家がいたと考えるとゾクリともしようものだ。ただ平城京再建朱雀門同様にあまりに色鮮やかで美しすぎる建物はどうも過去の想像力を阻害しがちになってしまう。逆説的に目という器官の重要性が証明されるわけだ。あとついでに蛤御門も見た記憶が欠落していたので見てきた。
どうでもいいが天皇家が戻ってくることがあるとしても定住するのは無理がありそうだと思った。
近隣の重要文化財旧京都府庁も見てきた。30年前まで現役だった知事室などの豪華な荘重は見事である。
その後、嵯峨野線で嵐山へ向かう。ターゲットは特別拝観中の清涼寺である。清涼寺は嵐山の中心部から外れているため、人も適度の多さである。ここにも文殊菩薩騎獅像の姿があった。象に乗っているのもいた。その後中心部にある天竜寺塔領の弘源寺へギリギリの時間に到達。ここも特別拝観をしていた。見どころは少ないが、著名な近代画家の竹内栖鳳のものや蛤御門の変時に長州が陣を敷いていた関係でイライラして付けた刀傷などがある。これは蛤御門そのものを見た直後だけに興味深い。
2006年10月31日(火曜日)
近ごろ北京五輪の水泳などの決勝が午前中に行われるという異例の発表があった。なんでも米国のスポンサーの要望であるらしい。ここまでくると、まったくもって五輪は腐ってきているとしか言えまい。プロが出るのは良いにしても大会方式を一地域のお金儲けのためにねじ曲げてしまうのは最悪としかいえない。そのうちルールもスポンサーの喜ぶ物に改編されるのではないか。嘆かわしい現状である。
近ごろ日本サッカー協会が電通と莫大な金額で契約を結んだわけだが、あくまでスポンサーが影響を及ぼさないことを期待するばかりだ。オシムはかつて旧ユーゴの各国の影響を振り払ってきた実績を持つだけにオシムである限りは安心であるが、そのオシムがクビにされ、また前任者のような都合の良い人材を連れてこないとも限らないのである。この点危惧される。もっとも弱小ではどうにもならないのも事実であることを悟ったとは思うので、オシムが2年後に一定の実績を蓄積していることだけを祈るばかりだ。
サッカーと言えば、クラブW杯のオセアニア代表(ニュージオランドの謎のクラブ)が岩本輝を獲得した。なんとこの二年間浪人である。多分現在の実力は地域リーグ(J1、J2、JFLの更に下のいわゆる4部リーグ。Vファーレン長崎やFC岐阜、NW北九州、松本山雅など)の元Jリーガに混じっても明らかに劣るレベルなのは間違いない。まったくいくら開催が日本で日本のチームがアジアチャンピオンズリーグのグループリーグで敗北(これで何年連続か・・・)したとは言え、見苦しいにも程があると言える。協会に無関係ならば良いが、実際川渕会長も望んでいたので関係あると見るのが妥当だろう。昨年の三浦知良は現役であったし更にオーストラリアリーグ後半戦に参加したのでまだ良いとしても、今回の岩本輝は本当にこのクラブW杯専用の要員(しかも戦力期待できない)なわけで・・・。もちろん本人は現役本格復帰に必死にチャンスを掴もうとするだろうけど。
そういえば先に触れた地域リーグ決勝大会が今月末と来月頭に開催されるが、そこでも即席助っ人(こちらは戦力見込み)が多数登録された。日本の4部リーグクラブが3部リーグ昇格を目指す大会である。なんとなく今回のクラブW杯専用の助っ人と似ているようでずいぶん違うものである。
ソフトバンクが終わりの始まりを歩みつつあるように思える現状の事態である。この状況を脱却する妙案を1つ提案してみよう。このままではナンバーポータビリティで大幅減になるのもやむなきである。信用性の失墜がもっとも大きいと言える。ここから大幅減の現実を回避しようとして、既に発表してしまったプランを少しずつ更に安値にしていったところで、それは誤魔化しの詐欺まがいの宣伝効果に拍車をかけるのみで、更なる信用性安定性に疑問を投げかけられるだけで効果はないと言える。それならば最終兵器の新プランを出すしかない。その案とは基本使用料を500円(ソフトバンク得意技だ(笑))にして、データ通信定額を2500円で任意加入可能にする仰天プランしかないだろう。ただし通話料は相手が誰であれ業界最割高とする。また端末0円(笑)アピールも大嘘なのでやめ、中身は現状制度のまま、任意で割賦購入できるようにすれば良い。お試し加入をしやすくし、止めたくなればいつでも逃げてOKの環境を作るのである。もちろん端末は2万近くは払ってもらうが、月々最低500円のため、セカンド機種に最適となるのである。これにより見かけの加入者を増にもっていくことが可能となる。この作戦に従えば、ナンバーポータビリティでは大敗北かもしれないが、合算加入者は大幅プラスも夢ではない。更に既に発表してしまったゴールドプランのソフトバンク同士なら1時から21時までに限定して無料というサービスに注目して欲しい。これはセカンド機種であれ相手がソフトバンク携帯を所持していれば効果があるのである。だからこのセカンド機種格安拡散計画は大いに効果的であると言える。セカンド機種で加入者が増えると、一定の心理効果でファースト機種に持ちたがる人間も増えてくるかもしれない。もちろんこのソフトバンク同士が定額というサービスを安心して使うためのシステム設計も最重要となる。つまり電話発信時かせめて相手が受話時に相手がソフトバンク(定額時間内)かどうかの音声案内か信号を発するべきなのである。そうすれば間違えてDoCoMoやauに通話して、割高すぎる通話料を徴収される心配もなくなり、ユーザは安心して長時間通話を行えるようになるであろう。そうでなければ心理的に逼迫して定額の意味がまるでないのである。以上、ソフトバンクが倒産せずに立ち直れる道を考えてみたが、はたして自転車操業ソフトバンクの今後が注目される。
2006年10月30日(月曜日)
ナンバーポータビリティの話
ソフトバンクという企業についてはここ最近は多少見直してはいたが、携帯電話参入と予想外割引以後、再び見方を厳しくせざるを得ない状況に陥っている
なんというか大々的な発表に加え通話料0円とか端末0円とかCMを流して嘘八百を流しているときからどんどん不信が高まっていったとしか言いようがあるまい。
通話料0円は限定的(ソフトバンク携帯同士で1時〜21時限定、しかも他への通話料や当たり前のオプションがその他料金が割高すぎる)な話であり、決して安くはなかった。安くなる人は夜間以外にソフトバンク携帯限定で月2万以上通話していた偏ったパワーユーザに限定されるという超限定的トリックである。
端末0円にいたってはそもそも表現がおかしい。端末が24,000円するとしたら、単純に24ヶ月ローンで1ヵ月1000円ずつ請求されていくというシステムにすぎないのである。恐ろしいのは途中解約時のローン残額一括払い時や機種変更時の多重ローン化である。
いずれにしても何にしてもソフトバンクはただでさえ反対勢力の多い会社であったのに、プラン変更をお家芸としていて批判が強かったボーダホンを引き継いでいるので、まずは信用を第1とすべきであったのに、この行き当たりばったりぶり(書いている途中で突然ゴールドプランの他社料金安値化を口走ったりしてるし)とインフラの弱さを露呈した先週末は、最悪にもほどがある携帯電話事業スタートとなったと考えて良いだろう。
今現在もツーカーユーザでソフトバンクが買い取ってくれればいいのに、とか少し考えていた時期もあったが、今ではそうならなかったことを感謝しているくらいである。まぁ、そろそろツーカーもauに変更した方良いかも知れない。今でもセカンド所持機auがあるので、一本化すると言うことにすぎないわけだが。
さて、上記にも関連して話を進めるが、先週くらいだったか、日本の報道の自由は50位くらいという記事があったように思う。先進国にしては異常に低いように思うが、これが実状だろう。なぜなら日本国はマスコミはスポンサー至上主義であり、スポンサーに不都合なことは決して言わないからである。ニュース番組はもちろんバラエティにいたるまで強力な箝口令が敷かれている。今回のソフトバンク事件についてもマスコミは美点を中心しか取り上げない報道ぶりを見せていたことでも明らかであろう。問題点を指摘するなどの役目を果たしていないのである。もちろんシステムトラブルなどの批判が集まってはじめて分析しているような始末。手に負える物ではない。
その他、近ごろ話題になっている奈良県職員の寄生虫もびっくりのヤクザぶり。京都市職員のあまりにも低いモラル。世界中で話題になっている中国共産党のチベット民間人虐殺。韓国で社会問題化している北朝鮮に対する韓国企業の出資に比較して、その問題の韓国企業に多額の融資をした日本企業。中国の毒野菜問題などなど。これらについて全く無視あるいは少々取り上げても全く継続せず、まるで些細なことのように放置するのはなぜなのか。それはかつてのような国家による報道統制ではなく、報道機関が徒党を組んだ勝手な自主規制である。身の危険を感じるのはわからんでもないが、面倒が怒りそうなものは関わらないとする態度、拝金主義などなどが入り交じった状態は報道機関としては明らかに失格と言える。これでは60年前と変わりはしないのである。
2006年10月28日(土曜日)
奈良国立博物館の正倉院展に行った。飛んでもないくらい人がおり、入るのまで40分。入った後も人が多すぎて全く満足に程遠かったのが残念である。1200年前の織物なのが色彩までハッキリ残っているのには感動もしたものの、こういうものはゆったりした気分で見るべきものなのに、訳のわからんおばさんが口に出して押して押して押しまくってくる状況ではどうにも不愉快な気分が勝ってしまうのである。ということもあって、詳細な図録は購入しておいた。
さて、今までは東大寺や興福寺春日大社などの超有名所しか行ったことがなかったが、奈良公園の周囲にも有名所はたくさんある。元興寺もその一つで仏教を飛鳥に広めようとした蘇我馬子が開いた飛鳥寺の法興寺が平城京に移転してきたものである。収蔵庫内の説明によるとその時の材木などもハッキリ再利用されているらしく、法隆寺五重塔の記録を抜いて世界最古の木造建築物、しかも現役であるようだ。その極楽坊が国宝であるし、それ以外でも五重小塔が国宝であり、重要文化財も多数ある。まさに感動すること間違いなし。しかも人も少数(境内全部合わせても20人程度だろう)なのでゆっくり拝観できるというお奨めのスポットと言えるだろう。ただ奈良公園の入り口側からは比較的近いといえ、場所が入り組んでいてわかりづらいものがあったので注意されたい。さらに元興寺塔跡がある別の元興寺(当初は同一だったが今は宗派が違う)もあるため注意が必要である。
その後新薬師寺に向かう。こちらは光明皇后の藤原光明子が聖武天皇の病気回復祈願のために建立したという寺。ここも本堂、薬師如来、12神将など国宝が揃っているお奨めの寺である。ただ唐招提寺の近くにある西ノ京の薬師寺に比べると、現在の寺の規模は小振りである。また薬師寺の薬師如来は巨大であったが、こちらのは通常サイズであり、俗世間の信仰度も薬師寺の方が遙かに勝っているようだ。元興寺からはずいぶん遠かった。例のごとく案内表示が不足しているため、迷っている気がして不安にさせられるのである。こう言うときのauのGPSは役に立つ機能であろう。
さらにもう少し時間があったので1キロほど奥にある白毫寺に向かってみた。こちらは閻魔大王像など鎌倉時代の重要文化財の仏像が7つほどあった。五色椿が有名のようであるため本来なら時期を選んで向かうのがよりよいと思われる。天然記念物でも文化財でもないが寒桜がいくつか咲いていたのが印象的だった。
奈良公園の鹿の不思議な話。鹿煎餅を持つ観光客にはアタックをかけてくる鹿もいるのだが、なぜか鹿煎餅屋で売られている煎餅には反応しない。なぜだろう。鹿煎餅屋では鹿が普通に奪えそうな高さの台上に無造作に煎餅を積み重ねているだけなのに。さすがに神格化された世界で唯一のお辞儀をする野生生物である奈良公園の鹿だけその辺の役割はわかっているというのだろうか? あとどうでもいいけど鹿は愛らしい。その理由はあの澄んだ目だろうな、と思った。
2006年10月23日(月曜日)
あるドイツ人がカーナビを信じて交通事故にあったそうだ。この話は信号を信じて明らかに安全なのに青になるまで待つ愚か歩行者の話に似ている。大阪は愚かな歩行者信号機が多い。たとえば大通りから右折または左折しないと侵入できない一方通行の横道に対して、その大通り用の信号とほぼ同期する形で青に変わる歩行者信号機があったりする。この道は一方通行なので反対から100%車両が来ることはありえず、つまり大通りが赤で自動車がストップしている間は絶対に車が侵入しないにもかかわらず、歩行者側の信号も赤のため、愚か者は渡ることができない。それでもって、歩行者用の信号が青になると、愚か者は自動的に信号を渡りはじめるが、同時に自動車信号も青になっているため、右折や左折の自動車には注意しなくてはならないわけだ。明らかに信号が赤の時の方が安全なのである。機械に頼ってしか生きていけないような思考停止は許されるべきではない。信号やカーナビなど音声案内などは人間の判断材料レベルのものであるべきはずなのだ。ということで、一番愚かなのは馬鹿な無能で役に立たないくせにコストが高い歩行者信号機を小道にわざわざ設置する馬鹿な役人ということになる。そしてその馬鹿な役人の設置した信号機を信じて疑わない愚か者たち。大通りや見通しの悪い場所以外では信号がなくとも自分の目で判断して歩行をしていくのが人間の役目であろう。むろんこれは人間の目で容易に判断が付く対自動車や二輪車の場合であり、歩行者用信号に限った話である。自動車用信号の場合は、信号は守らないと小さな人間を認識するのは困難であり、小道の信号ならば尚更であることは言うまでもない。
2006年10月22日(日曜日)
夕方に近接の四條畷神社に参ってみた。実は3日ほど前に会社帰りにも寄ってみたがあまりの暗さに撤退していたりする。なお、ここは楠木正成の息子の楠木正行(小楠公)が祭ってある由緒正しい神社である。駅前住所も楠公であり、交番やアパートの名前も楠公云々であり興味深い。南朝側の楠木一族は明治期に評価が一転し、このように神格化されるようになった。今さら言うまでもないが詳しくはネット検索でいくらでも出て来るだろう。駅を挟んで反対側には楠木正行の墓もあり、南北朝時代に墓とほぼ同時に植えられたという大クスノキ(碑を挟んで2本あったものが碑を抱くようにくっついて1本のようになっている)が現存していてまさにこの世のものとも思えぬような神格に相応しい雄大な様相を見せつけていた。囲いがあったため巨木の幹に触れることは叶わなかったが枝には触れることが出来た。700年が流れてきたような圧倒的感触がしたような気がするのは気のせいだけとも言い切れまい。もちろんちょうど風が吹いたからと言うのもあるのだけども。
ヒトラー〜最期の12日間〜をDVDで観た。
2006年10月21日(土曜日)
久々に京都サンガを応援に行くも、圧倒的に攻めていたがシュートの積極性やパス出しの甘さが目立ち、更にオウンゴールの不運もありドローに終わってしまった。いよいよ残留戦線は厳しくなりつつある。
向日市の長岡宮の跡地を散策してみた。大極殿など主要な発見跡地は、現在は住宅地の中において各所に分散して公園として整備されていた。学童たちが遊戯に励む姿や犬と散歩する年配初老あたりの男女の憩いの場になっているようだ。参考までに長岡宮跡は長岡京市ではなく向日市であり阪急西向日駅が最寄りであるので注意。この日はついでに向日神社にも参ってみた。
2006年10月14日(土曜日)
平城宮跡に行ってきた。朱雀門などが復元されている上に、宮跡は広大な敷地として整備されているため、他の宮跡とはスケールの違いを見せつけている。広すぎて全周回ろうとするとかなり疲労する。これが2010年の完成型になるとどうなるのだろうか。なお、跡地は市民の憩いの場となっているらしく運動に興ずる人や散歩する人など多数であった。無料の平城宮跡資料館もあるため、首都制覇計画に関係なく奈良観光として一大スポットになることは間違いないと思われる。駅から徒歩15分程度なので交通の便も良い。
あとは近くの平城天皇陵および駅前の西大寺を見てきた。西大寺は東大寺と異なりひっそりした雰囲気であった。もっとも特別拝観直前の時期だったからかもしれない。お陰で秘仏などは見ることが出来なかったが、それでも重要文化財クラスは複数あり、素人目には特に獅子に乗った文殊菩薩騎獅像が面白く思えた。ちなみにここは大徳寺みたいなもんで、1つの建物に入る度に拝観料が必要であるので注意。セット価格もあるが2割引程度で1000円弱だったような気がする。
2006年10月9日(月曜日)
神戸の福原に行ってきた。念のために捕捉しておくが福原京ゆかりの歴史探訪である。尻の筋肉が相変わらず痛い中、兵庫区の山の方を歩き回る。バスは苦手なので乗らないのだ。下り坂が尻の筋肉には効いた。で、地下鉄大倉山駅に降りて、荒田八幡神社へ行く。ここには安徳天皇行在所跡や福原遷都800年碑があるため、これでもって首都制覇計画の福原京は一応制覇したことになるだろう。その後山の方へ進出。ハッキリ行って案内板の類は皆無に近いため迷うことになる。この辺りは都会のメジャーとは言えない観光の難しさと言えるだろう。それでも東福寺に到達するも拍子抜けする。見るべきものもなく寺院ならあるべきものがないのである。ガッカリするも、これは阪神大震災の影響のようで震災の爪痕を改めて実感した。気を取り直して祇園神社へ向かう。携帯電話のGPSが無ければ迷うところであったが、妙な細い道経由でどうにか辿り着く。しかもその途中の道に勝海舟寓居地の生島四郎別邸を発見。門が閉ざされていたが脇道を徒歩で行くしかなかなか発見しえないものだけに感慨。祇園神社は高い石段の上にあり清盛関連の伝承が残っているそうだが、今はそのような痕跡はなく一般的な整った神社の様相であった。先の生島四郎関連の燈籠もあった。さてWEBで落とした源平ゆかりのMAPによると近くに湊山温泉というものがあるらしいのでこれまたよくわからん位置ながらも辿り着く。同名の銭湯が経営中だったので笑ってしまった。ゆかりの文章はあったがなるほど妄想力で820年以上前の世界を想起するしかないだろう。目の前の大人500円は無視だ。次は雪見御所跡だ。これも石碑があるばかりなので妄想でカバーしないと行っても面白くも何ともないので注意が必要だ。というかこの点は跡地巡りは仕方あるまい。この界隈が福原京の中心であったということで実は福原京に来たと言うためにはこの雪見御所跡の碑の近くまでは来なくてはならないということだ。ここで最終目的地たる氷室神社を目指すことになる。この氷室神社が微妙な遠さであるが、とはいえども神戸市であり、加茂町や安土町で山道含む数キロの行程に耐えてきたものからすれば楽勝である。道に迷わないことだけを念頭にする。ただ尻の肉は痛いのであった。氷室神社は貧乏なのか神社としての体裁は見事な物であるし、お稲荷さんまで揃っているのだが、それが全て古めかしい。しかも山の麓の神社らしく暗くじめじめした中にあるためなんだが時代を間違えたような錯覚に陥るのだ。ある意味良い雰囲気を味わえる正しい神社と言えるだろう。現代風なのは張り紙の説明が妙に多い点か。もう改行せずに書き殴るのみ。最後にその近くの熊野神社へ。こちらは小綺麗で明るい神社であり、たまたま秋祭をやってるときだったので子どもと老人がそれなりにいた(全然少ない数だが)。
2006年10月8日(日曜日)
邦画「博士の愛した数式」をDVDで観る。記憶が80分しか保たない数学博士と家政婦およびその息子の少年の心の交流を描いた作である。数学というか数字の奥深さを教えてくれる。しかしこの世の中も宇宙も人間の思考もあらゆる事象が数字で表せると知っていると改めて不思議な気分にさせられる。この世界はなんなのか?
どうでもいいが、海住山寺の山登りはやはり相当な物だったようで尻の筋肉が痛い。
2006年10月7日(土曜日)
寝坊したので行き先を加茂に変更。首都制覇計画の一環として恭仁京跡(山城国分寺跡)を制覇する。さすがに跡地にすぎないだけあり七重塔跡の礎石群とその碑や大極殿跡の碑などがあるばかりである。
他にはこちらの方がメインかもしれないが国宝の五重塔を持つ真言宗・海住山寺にも突入。これは恐るべき山道であり、疲れても心が躍った安土城址以上に苦しかった。しかもなぜか晴れの天気予報のはずが雨が降ってくる始末。我ながら最近の雨男ぶりは相当酷い。相当な物好きでないと行かないような場所らしく観光客皆無なのもいやはや。もっとも紅葉もないし季節はずれなのかも知れない上に、今月末から特別拝観期間だからかも知れないが。五重塔は予想よりも小振りだったが美しさでは薬師寺の凍れる音楽に匹敵する見事さ。本堂内の平安時代や鎌倉時代の仏像も見どころだ。特に象の像には関心を持った。あとこの寺は境内に各種のお地蔵さんが揃いに揃っているのが興味深い。特に妙に違和感があるようで調和している茄子には驚愕。
もう一つ近くにあったので恭仁神社にも行ったがここは特に無理して行くほどではなかったか。なにせ近くと行っても恭仁京跡からでも1キロ離れている上に駅から遠くなる。これも山の方角であり特徴的なのは狛犬と鳥居から本殿への距離の長さだろうか。
ちなみに加茂町はまさに原風景とも言えるような田舎であった。駅前はさすがに大阪市の中心部まで大和路快速で1時間未満というだけあってマンションが立っていたりしていたが、1キロも歩くまでもなく、田舎ゾーンである。これは安土もかなり田園風景であったが、この加茂の方が一枚上手である。これで車と電信柱がなければ何時代なのかわからなくなるほどなのだ。車は仕方ないにしても、電信柱はやはり風景的に非常に邪魔であると改めて思ったのであった。ちなみに車は危険すぎるから地図にない裏道を通るわけで余計にそう思うのであった。
もう一つちなみに加茂町は歴史観光の宝庫である。他にも浄瑠璃寺などの国宝を有する寺が複数存在する。こちら方面にもそのうち行きたいものだ。
ついでに恭仁神社で蚊に刺されたので思ったこと。山や林に蚊は多いが彼らは普段はどうしてるのだろうか? 野生生物がいるほど山奥ではあるまいし、人間もそうはいないわけで。でも田舎の方が蚊が多く都会は少ない。はたして田舎の蚊は栄養不足にならないのか? 血を吸わずに生きていけるならリスクを冒して吸いに来る意味がわからんしなどとどうでもいい疑問がわいたことを書いておこう。
浅野忠信と哀川翔の東京ゾンビを見た。予想以上に馬鹿馬鹿しすぎる展開に笑いながらも突っ込みまくりである。5年後という展開には爆笑だがその5年後の内容がぶっ飛びすぎにも程があり一寸茫然。
2006年10月1日(日曜日)
土曜日は会社行事だったので、この日に順延。今週は安土町である。ちなみに大雨だったので最悪のコンディションだったが、行こうと思ったときにいかないと後悔が残る可能性が高いから仕方あるまい。
安土駅には信長像が出迎える。ただ現段階では観光の町とは言いきれない駅前である。特段な土産屋もない。それでも安土城の様子は最近の発掘などでずいぶん判明してきてるようで、安土町の博物館や92年のセビリア万国博で展示された信長の館などは素晴らしく再現されていたように思えた。まだまだ想像の産物と思われるのが困るのか、史実に基づくという点も強調していた。今日は雨が激しく降っていたが安土城址にも突撃。100メートル少々の山とはいえ、石段にするとほぼ500段でありかなりキツイ行程である。だが、大手道を歩き、伝羽柴秀吉邸跡や伝前田利家屋敷跡などを歩くとたった430年の年月を経ただけであると想起するとまさに興奮するばかりであった。天主跡も同様である。またこういう場所に来ると木々に注目するが当然ながら若い木しか目に入らなかった。
ところで安土城調査は平成20年頃には一段落おくようである。ただ欧州にあるという安土城屏風本物が発見されないことには大々的な安土城再現プロジェクトは出来ないのだろうとは思う。もし史実に基づいた安土城+城下町が平成の世に復活すれば一大観光地になること間違いなしであるだけに期待はしたいところだ。安土町は田舎である割には京阪神および名古屋、それに新幹線からも含めた交通の便が優秀であるため、ある意味田舎だから優位とも言えるのだ。
あと残りの安土町情報を一気に書き残しておくと、大雨の中わかりにくい位置にあるセミナリヨ跡を見付けたが公園に碑があるだけで拍子抜け。まぁ跡だから当たり前なのだが。それと信長の館のある文芸の郷で戦国焼あるいは信長ハンバーグを食べようとしたら券売機が売り切れ表示・・・。これも拍子抜けであった。結局考古博物館で近江牛肉うどんを食べたのだった。さすがに単なるカレーなどは嫌だったので。ええっと、残りはもうないかな。そうそう今回は行くのは無理だったが、この町六角氏の観音寺城跡も有していたりする。こちらは難攻不落の400メートル以上の山城であるため攻略は困難であるが、チャンスがあれば行きたいが、やっぱり難しいだろうなとは思ってしまうところで終わり。
2006年9月23日(土曜日)
長浜に行ってみた。もっと早くに着きたいと思ったが、到着は12時1分である。9時過ぎ起床ではこんなもんだろう。
で、大急ぎで城博物館、旧長浜駅舎、明治天皇ゆかりの慶雲館、安藤家、秀吉以来の祭の伝統の曳山博物館、大通寺といった駅前メジャー所を回ったのだった。そこは急ぎ足ながら、つい400年ほど前を想起しつつ歩くべしであるのは言うまでもあるまい。あとは夕方以降に長浜八幡宮、舎那院(外回りのみ)、知善院(外回りのみ)、徳勝寺の浅井家三代の墓であった。
城では石田三成と大谷吉継の繋がりなどもやっていたが、基本的にはやはり秀吉。ちなみに今は時期的に功名が辻の山内一豊と千代がもっとも目立っていた。
食い物では鯖そーめんといったものを食ってみた。にゅうめんっぽかったが、なかなかの味。あと冗談か何か知らないが長浜市に長浜ラーメンがあったので食ってみたが、博多長浜ラーメンだった。
昼飯は4時過ぎに食ったせいで、その直前は非常に気分が悪くなってしまった。予想通り、相当体力がなくなっているらしい。
ともかくも長浜にはもう一度は行かないとなるまい。黒壁スクエアのレトロ街も良く見てないし、更に竹生島、成田美術館、国友鉄砲、石田三成生誕地、小堀遠州生誕地、小谷城跡、姉川合戦跡、ちょっと離れて賤ヶ岳合戦跡などなど。長浜はまさに日本屈指の魅力的な町なのではあるまいか。ヤンマーのお陰かなにか知らないが経済力も高いし。
2006年9月22日(金曜日)
東京教職員の国家国旗に対する裁判。まさに茶番である。何度も言うように自治体の教職員は公務員である。公務員がどうして存在しているのかを第1に考えるべきである。
会社の大便の扉を開けたら人がいた。アホか、頼むから鍵くらいしておけ。と思わざるを得まい。なぜか北京のトイレを思い出した。あのズラッと並んだ壮観なトイレを。、周りに見られて当然のあのトイレ。共産主義らしいトイレまで他人の目、プラス糞尿が。五輪の時までに大量のトイレは整備できるのだろうか。文化なんだろうがどうするのか。
2006年9月11日(月曜日)
どうでもいいが久々に背広の上を着ていったが、まさか帰る時に着るのを忘れてしまうとは。
2006年9月9日(土曜日)
鴻池。三百圓のはずが誰もいねえし、管理事務所で何度も読んでもでねえ。二階電気付いてるのに。というわけか勝手に入って観光させてもらうだった。それにしてもいくら大雨でも1人も客がいない上に管理者も現れないとは。。。これでも重要文化財の建築物が複数あるというのに、関西では見向きもされないというわけか。
2006年9月8日(金曜日)
腹回りがすkすかだと思いきや、ベルトがちぎれるとは。固定金具が端っこの固定部を寸断していた。
2006年9月6日(水曜日)
新宮さま誕生は真にもって喜ばしいこと。この神懸かりぶり。これが最長2666年、最短でも1500年以上の歴史が持つ神秘の力なのか。
昔のちゃらんぽらん日記録
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